IPO勉強会

監査法人トーマツのIPO勉強会で講師を務めました。
トーマツTS1部の公認会計士の皆さんのほか、証券会社の公開引受部門の方、IPOコンサルタントの方、弁護士の先生などIPOに関わる様々な専門家の方が20名ほどが参加されました。
私からは、戦後1949年に再開された以降の証券市場の歴史を振り返り、新興市場が誕生した経緯をディー・ブレイン証券の変遷とともに説明。
新興市場の抱える問題点とその解決を図る東証プロ向け新市場についても解説しました。
ロンドン証券取引所のAIMをモデルとする新市場。
グリーンシートはこのAIMと性格が似ていること等も紹介。
企業への円滑な資金供給と適正な価格発見機能とを持つ健全な証券市場をつくるためのディー・ブレイン証券の試みについてお話ししました。
厳しい新規上場環境の中ですが、皆さん目を輝かせて聞いていただいています。

ハードルが高かった昔の上場

私もかつては太田昭和監査法人(現:新日本有限責任監査法人)の公開業務部で、上場のコンサルタントをしていました。
私が監査法人に入社した1983年は、今のJASDAQ証券取引所の前身として「新しい店頭市場」が生まれた年です。
東証2部に上場できる会社は10億円の経常利益が必要とされていた時代。3億円程度の経常利益で上場できるようになった店頭市場の誕生は、IPOを中堅企業に大きく広げることとなりました。
当時、監査法人でも証券会社でも店頭公開セミナーを実施してPRに努め、JASDAQは20年間で1000銘柄まで拡大したのです。
しかし、赤字の会社でも成長性を評価されれば公開できる米国NASDAQと比較すると、経常利益3億円の実質基準はやはりハードルが高い。
日本では、なぜ将来性を評価されるベンチャー企業が上場できないのだろうと、監査法人時代には疑問を感じていました。

新興市場の誕生は証券取引所の生き残り戦略?

その疑問の最初の答えとなったのが1995年に生まれた店頭特則市場。
しかし、この市場は3銘柄が上場したのみで消滅してしまいました。
これまでの上場の常識とのギャップが著しすぎたというところでしょうか・・・。
日本の証券取引所は長い間8取引所体制。
上場会社の地域割り制度があってその体制は国策で守ってきたものでした。
それを覆したのは1996年11月に発表された金融ビッグバン。
地域割りがなくなって競争環境に晒された証券取引所のうち、新潟・広島・京都の各地方証券取引所が相次いで東証大証に吸収されて消滅。生き残った5取引所は生き残りを賭けて、それぞれ新興市場を開設したというところです。
その新興市場は、インターネットの普及と相まって、個人投資家の投機マネーが流入
一時活況となったものの、今や低迷し新規上場企業数も激減。
短期売買志向の個人投資家に依存しすぎた市場は、その限界を露呈したとも言えましょう。

グリーンシートはIPOの一つの形

私が独立したのは、今と同じような経済環境で不況に突入しようとしていた1993年。
成長を志す中小企業の支援を目的としたコンサルティング会社のディー・ブレインを設立しました。
1996年に企業がWEB上で情報開示を行い、株式を発行して資金調達を行う「インターネットベンチャー投資マート」を開設。
ディー・ブレイン証券の設立は、それがきっかけでした。
1997年、金融機関の貸し渋りが深刻となる中で、金融ビックバンの一環として、日本証券業協会が「未公開株投資勧誘制度」を発足。
その制度を利用して、設立したばかりのディー・ブレイン証券はVIMEXという私設市場を開設し、中小企業が公募増資によって資金調達を行う支援を開始しました。
その制度が発展して今日のグリーンシートとなったのです。
ディー・ブレイン証券が生まれて11年。グリーンシート銘柄は現在75社にまで拡大し、9社がグリーンシートを卒業して新興市場に上場しました。
拡大縁故募集によって資本参加型の長期安定株主を獲得しつつ、ローコストで上場メリットの一部を享受できるグリーンシート
かつての店頭市場と良く似た制度のグリーンシートですが、IPOの専門家の皆さんでも、正確な情報が不足しているようです。
まだまだ私の努力が足りなかったことを感じます。
今日ご参加いただいた専門家の皆さんのお力もお借りして、多くの方にグリーンシートを知っていただき、正しい理解を広めていきたいと思います。